男の毎日は、仕事と家の往復の繰り返し、恋人や語り合える友人がいるわけでもなく、いわゆるさえない中年男であった。
このまま同じような人生が死ぬまで続くのだろうかと思いながらも、毎日電車に乗る。
ふと、男は、いつもは降りない都心部にいってみようと思い立った。何もなかったら久しぶりに風俗でもいって金を使ってこよう。騒がしい人々を横目に、男は道を進む。
いつもは見かけない道が目に留まる。あんな暗がりに、道があったっけか。
のぞいてみると、占い師らしき老人が、怪しげな看板に怪しげな光をともして座っていた。老人が男なのか女なのかはわからない。
気になった男は、老人に話しかけてみることにした。
「こんばんは」
「いらっしゃい」
「これは占いですか?」
「いえ。占いではありません。私は、記憶屋です」
「記憶屋?なんですかそれは」
「記憶屋とは、記憶を売ったり買ったりする者のことでございます。消したい記憶をうってもらい、それが欲しい誰かに売ってやるのです」
男は笑う。記憶を売るだって?そんなことがあるはずがない。怪しいやつがいたものだ。
「ほう。記憶をうってくれるんですか。例えば、どんな記憶があるんです?」
「どんなものでもございますよ。壮絶なものから穏やかなもの、恵まれていないものから、苦労など知らない人生まで」
「記憶をもらうと、これまでの記憶はどうなるのですか?」
「記憶を売っていただかない限りは、記憶が上書きされることはございません。つまり、あなたは2つの記憶を持つことになります。その場合、あなたにとっては、買った記憶分の情報が増えるだけです。しかし、もし、記憶を丸ごと上書きしたいのであればそれも可能でございます。ただし、そうしますと、あなたの人生そのものが、記憶の持ち主のそれに入れ替わってしまいます」
「人生が入れ替わる?」
「左様でございます。記憶とはすなわちその人の魂そのもの。魂を入れ替えるということは、その人のすべてが変わってしまうということです」
「金持ちの記憶を上書きすれば、金持ちになれるという具合にですか?」
「その通り。記憶を上書きするとは、単に情報を得るだけではなく、その人物になり変わるということなのです」
「しかし、入れ替わる前の私を知っている人はどうなるんです?」
「他の人が持っていたあなたの記憶は消え、もともとあなたが別の人間であったかのように接します。あなたの記憶が入れ替わった瞬間、他の人の記憶も切り替わるのです」
話を聞いているうちに、男はこの老人の言うことにとても興味を持ち始めた。そんなに素晴らしいものなら、一度試しに記憶を手に入れてみるのも悪くはない。なあに、どうせ嘘だろう。物は試しだ。
「では、ここにある中で、一番恵まれた人生を送っていた人の記憶をください。金があり、女もあり、友情もある。全てが満たされているような記憶が欲しい」
「料金を先に頂きます」
老人は男に料金表を見せた。見ると、とんでもない額が書かれていた。
「冗談じゃない。こんなに払えるか」
「では、お客様の記憶をうってしまったらどうでしょう?それでしたら、ただで記憶を入れ替えることが可能でございます」
「しかし、人生が入れ替わってしまうのでしょう?」
「もし、本当に入れ替わってしまっても、手に入れた記憶が気に入らなければ、またここにきて戻して行けばいい」
たしかにそうだ。どうせ入れ替わりなどしないだろうが、本当にそうなってしまっても、また戻せばいい。リスクはない。
「わかりました。じゃあ、いまの私の記憶をうって、ここにある1番良い記憶を買います」
「かしこまりました」
老人は、手元で何やらごそごそと動かして、男に手をかざした。すると、脳が揺れる感覚に襲われた。視界がゆがみ、倒れそうになる。しばらくその状態が続くと、男はいいようのない心地好さに目覚めた。
「気分はどうですか」
老人がこちらを見ている。男は頭がぼーっとしてしまっていたが、この老人が何かをしてくれたということだけはわかった。
「ありがとうございます。あなたのおかげです」
男はそれだけ言うと帰って行く。
見事、男の頭には、恵まれた記憶が上書きされたのだ。
それから男は、有り余るお金を使い、豪遊した。老人の言う通り、男は、別の人間としてこの世に存在しなおしており、男を知っているはずの人間の記憶も入れ替わっていた。現在の男は、男であって男でない。何不自由なく暮らしてきた、ひとりの恵まれた人間として存在していたのだ。
もちろん、彼には消された記憶はなく、いつも通り満たされた生活をしているとしか思っていない。「満たされた生活」を欲しがっていた男は死んで、代わりに、別の人格が埋め込まれたのだ。まもなく、世界は富豪だらけになった。その誰もが、生まれながらにしてすべてを持っており、何不自由なく暮らしていた記憶を持っていると言う。
男はだんだんと、すべてを持っている余裕からか、「こうも同じような人生ばかりだと面白くない」と思うようになっていた。そして、ほとんどの人間が記憶を上書きしてしまった時、男は再び、偶然にも老人のところへたどりつく。
「これは占いですか?」
「いえ、占いではありません。私は、記憶屋です」
もしかしたら、あなたの記憶も、入れ替わった後の記憶かもしれません。
あなたが覚えていないだけで。
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