恐ろしい光景だった。
噂には聞いていた。
一度、海を出てしまえば、地獄のような苦しみが待っている。
特に、「魚食族」にとらえられると、目も当てられないほどになるのだ。
内臓や血はぐちゃぐちゃにかき回され、目は飛び出、充血し、しまいには個を判別できないくらい原形がなくなってしまう。
「魚食族」は、それを嬉々として愉しみ、嘲笑う。
そして、食うのだ。
子魚たちは、そろって震えあがった。
「じいちゃん。本当にそんな恐ろしい生き物がいるの・・・?」
「ああいるとも。じいちゃんも、仲間が何匹もとらえられていくのを、見ることしかできなかった」
「そんなのありえないよ!そうやって子供に嘘をついて、大人はいつも好き勝手するんだ」
「でもじいちゃんが言ってるんだぜ。嘘なわけないよ」
「そうだ!じいちゃんはすげえんだぞ」
本当だ、嘘だ、と、子供たちは興奮する。
「静かに」
「よく聞きなさい。お前たちがどう思おうとお前たちの自由だ。じいちゃんの話を信じなくたっていい」
「ただ、どんなことが起きても、これだけは覚えておきなさい。それは―――」
「今日のじいちゃんの話、本当だと思うか?」
「僕はじいちゃんを信じる」
何匹かが賛同の声を上げた。
「けどそんなに残酷なやつらがこの世にいると思うか?ああいって、また俺たちをだまそうとしているのかもしれない」
「だますって?」
「朝起きたら、群れの大人みんなでバッくれて、子供たちをサメのえさにするんだ!」
「そんなことお母さんたちがするはずない!」
「フィリーのやつはそうやって喰われたんだろ!」
「あれは事故だった!」
2匹はにらみ合う。
「じゃあ試してみるか?」
「なにを?」
「本当にじいちゃんの言ってることは本当なのか。みんなで見に行って、確かめてみようぜ」
「そんなこと、出来っこないだろう」
「怖いのか?」
「怖くなんかないよ」
「怖いんだろう。怖くないなら、確かめに行けないはずないもんな」
「僕はじいちゃんを信じているだけだ」
「だからお前はいつまでたっても子供なんだ。立派な魚になんてなれやしない」
「母さんがお前はただの不良だって言ってた」
「ふん。俺より泳ぎが下手なくせに生意気だな」
「なんだと」
「みんなはどうだ?何が本当なのか、確かめてみたくないのか」
乗り気なものとそうでないもの、半々くらいのようだ。
でもどうやって?
その中の誰かが言う。
結局勢いに乗ってしまったのがいけなかった。
苦しい。
仲間たちの何匹かは狭い水槽に入れられ、動きまわっているが、何匹かは外気に触れていた。2匹ほど、姿が見えない。
隣にいるやつはもうほとんど息をしていない。
死にかけだ。目がイってる。
「お前、大丈夫か。しっかりしろ」
話しかけたが返事はない。ぴくぴくと醜く生きているだけだ。
「意識をしっかり持て。海に帰りたくないのか」
そうは言ったが、自分も、そう長くは続かないだろうということは、はっきりとわかっていた。
見えるところでは、でかい魚が捌かれている。骨は露出し、赤く光る肉体が痛々しい。
僕たちは、巨大な「魚食族」が多く出現するという海域で群れた。
したことと言えば、ただそれだけで、曰く、やつらの仕掛けに自ら乗り、直接真実を確かめるという、幼稚な策であった。
「そんなことして、もし本当に戻れなくなったらどうするんだ」
「ありえないね。俺がそれを証明してやる」
「もし間違っていたら、みんなを犠牲にするんだぞ」
「いやならついてくるな。臆病者め」
言い返したい気持ちを押し込め、僕は帰ろうという意志を決めた。
出来るだけ多くの仲間を連れ、帰ろうとしたその時、突然世界の色が変わり、僕たちの距離は近くなる。
それが始まりだった。
その後、訳のわからないまま、放られ、詰められ、結局こうして氷の上に無様な姿をさらしている。
地獄のようだとは聞いていたが、本当にそれ以外に形容のしようがなかった。
周りには死にかけの仲間たち。
水槽にいるやつらだって、同じく死にゆく運命だろう。どこにも出口はない。
大量の魚が小さな箱に詰め込まれ、少しづつ少しづつ、命を失ってゆく。
仲間の内臓をえぐり、切り取ったやつらは、まるで馬鹿にしているかのように、切り取った肉をきれいに並べている。御丁寧に頭も添えて。
目玉だけをえぐり、妙な液体に浮かべられているのも見た。
信じられないくらい悲惨だった。
多くの魚食族がよってたかり、嬉々とした表情で仲間をつまんでいるのを、ただ黙って見ることしかできないのだ。
周囲には死臭が充満しており、吐き気しか感じなかった。
これを地獄と呼ばず何と言おう。
近くにいる仲間の意識が次々と消えてゆく中、僕は水槽にいるやつらを見た。
ちょうどその中の1匹が、必死に魚食族の手から逃げ回っているところだった。
しかし、逃げ場があるはずもなく、彼女はあっさりとつかまり、信じられないことに、そのまま頭をざっくりとモって行かれた。
彼女の身体は、かすかに動いていたが、すぐに内臓をえぐり取られ、息絶える。
ここにいた方が良かったのかもしれない。水槽にいる連中の精神は、壊れかけていた。
「ゆるさねえ・・・」
先ほどまで一言も発することがなかったので死んでいると思っていたが、皆を誘った張本人が口を開いた。
「生きていたのか」
「うるさい」
「喋らない方がいいんじゃないか」
「うるさい。俺はゆるさないぞ。あのじじいも。魚食族も」
水槽からとらえられた彼女は、魚食族のつまみにされていた。
「結局こうなってしまったのだから仕方ないだろう。諦めるんだな」
「俺はプライドを捨てない。じじいの言うとおりにしてたまるか」
「それがこのざまだろ」
「・・・こんなはずじゃなかった」
息が苦しいのか、彼は黙った。
「じいちゃんの最後の言葉、覚えてるか」
返事がなく、わからなかったが、意識があるということは気配で分かった。
「あれって、プライドを捨てるってことじゃないと思うんだ。諦めろってことでもない。じいちゃんは、希望を持つことを教えてくれたんだと思うんだよ」
「僕たちは何もできないくらいに小さいかもしれない。だからって、僕たちがあんな下品な連中に劣っているなんて、考えられないだろう?」
「そりゃ怖いよ。僕だって、いくら、じいちゃんの話とは言え、あんな話、信じたくもなかった。お前の気持ちもわかるよ」
「僕たちは、魚であることに誇りを持つべきなんだ。たとえどれだけ醜い姿になろうとも。僕が言いたいこと、わかるかい?」
「それが僕たちの、生きる意味なんだ」
「だってじいちゃんの最後の言葉―――それは―――」
意識が遠のく。
それ以上自分の声を聞くことはできなかった。