2013年3月26日火曜日

誰か翻訳して



そもそも「死ぬ」という言葉の定義はなんであったのか。



息をしなくなったら「死」だろうか。



呼吸が止まった場合でも、髪や爪は一定期間伸び続ける。それは「生きている」と言うことではないのか。あるいは、心肺脳すべての機能が停止したとして、その身体に残る微小な生命活動は、「生」と呼ぶことはできないのか。



それを「腐敗」であるというのなら、私たちは生まれた瞬間から、「腐敗」しはじめている。

結局は「死」というひとつの点に向かって動きつづけているということは、それをある地点までは「成長」と呼び、ある地点からは「老化」と呼ぶのは、いささか間違っている。

時間は「腐敗」に向かって一直線に進んでいるのだ。




定義されうる「死」というのは、単にその「腐敗」のスピードが上がる点だ。






では、生まれるというのはどういうことだろう。命の誕生は「いつ」であると定義できるだろう。



中絶問題でもかなり議論されるところではあるが―――受精したポイントか、胎児がある程度大きくなってきた時期か、母親の身体から切り離された時か―――。



ここでは別の見方をする。



例えば、ひとつの受精卵があるとしよう。

それは、ひとつの(あるいはふたつの)精子とひとつの卵子でできている。

受精卵になる前、精子と卵子はそれぞれ父と母の身体の中に存在していたものだ。

その精子と卵子は、精子と卵子になる前、本人の口から摂取されたタンパク質、食べ物であった。

食べ物とは、この場合、肉や豆になる。肉や豆とは、例えば豚や植物だ。

豚を例にとると、豚はその昔、精子と卵子であった。

精子と卵子は、もともと、豚が摂取した栄養源だ。植物や小動物、昆虫である。

小動物や昆虫も同じように見て行くと、最終的には植物になる。

植物の栄養源は、二酸化炭素と太陽光―――。






ここに仕切りはなくなる。



どこからが命で、どこからが命ではないなどというのは、あとで誰かが勝手に決めたものだ。



すべては最初から存在している。



存在する可能性が元からあったものが、セックスして、目に見えるように形になっただけなのだ。命は、時の始まりから終わりまで存在している。精子という形で。豚という形で。二酸化炭素という分子で。太陽光というエネルギーで。どこからが始まりでどこからが終わりかというのは、ときに恣意的だ。



話を戻すと、「腐敗」という活動においても、姿かたちは変われど、そこにあるものは変わらない。例え「身体」という形がなくなってしまっても、宇宙にはそのエッセンスが文字通り散らばっている。



ここに、命は「死ぬ」ことはないし「生まれる」こともないと宣言しよう。時の始まりから、すべての要素は存在していて、時の終わりまで、ただ形を変え続けるだけなのだ。

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