そもそも「死ぬ」という言葉の定義はなんであったのか。
息をしなくなったら「死」だろうか。
呼吸が止まった場合でも、髪や爪は一定期間伸び続ける。それは「生きている」と言うことではないのか。あるいは、心肺脳すべての機能が停止したとして、その身体に残る微小な生命活動は、「生」と呼ぶことはできないのか。
それを「腐敗」であるというのなら、私たちは生まれた瞬間から、「腐敗」しはじめている。
結局は「死」というひとつの点に向かって動きつづけているということは、それをある地点までは「成長」と呼び、ある地点からは「老化」と呼ぶのは、いささか間違っている。
時間は「腐敗」に向かって一直線に進んでいるのだ。
定義されうる「死」というのは、単にその「腐敗」のスピードが上がる点だ。
では、生まれるというのはどういうことだろう。命の誕生は「いつ」であると定義できるだろう。
中絶問題でもかなり議論されるところではあるが―――受精したポイントか、胎児がある程度大きくなってきた時期か、母親の身体から切り離された時か―――。
ここでは別の見方をする。
例えば、ひとつの受精卵があるとしよう。
それは、ひとつの(あるいはふたつの)精子とひとつの卵子でできている。
受精卵になる前、精子と卵子はそれぞれ父と母の身体の中に存在していたものだ。
その精子と卵子は、精子と卵子になる前、本人の口から摂取されたタンパク質、食べ物であった。
食べ物とは、この場合、肉や豆になる。肉や豆とは、例えば豚や植物だ。
豚を例にとると、豚はその昔、精子と卵子であった。
精子と卵子は、もともと、豚が摂取した栄養源だ。植物や小動物、昆虫である。
小動物や昆虫も同じように見て行くと、最終的には植物になる。
植物の栄養源は、二酸化炭素と太陽光―――。
ここに仕切りはなくなる。
どこからが命で、どこからが命ではないなどというのは、あとで誰かが勝手に決めたものだ。
すべては最初から存在している。
存在する可能性が元からあったものが、セックスして、目に見えるように形になっただけなのだ。命は、時の始まりから終わりまで存在している。精子という形で。豚という形で。二酸化炭素という分子で。太陽光というエネルギーで。どこからが始まりでどこからが終わりかというのは、ときに恣意的だ。
話を戻すと、「腐敗」という活動においても、姿かたちは変われど、そこにあるものは変わらない。例え「身体」という形がなくなってしまっても、宇宙にはそのエッセンスが文字通り散らばっている。
ここに、命は「死ぬ」ことはないし「生まれる」こともないと宣言しよう。時の始まりから、すべての要素は存在していて、時の終わりまで、ただ形を変え続けるだけなのだ。
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