ついに殺してしまった。
もう取り返しがつかない。人を殺してしまった。
ついさっきのことだ。感情的になり、一度攻撃してからその手を止めることができなかった。最終的には目も当てられないくらいにめった刺しにした。かわいそうなことをした。男は自分がしてしまった仕打ちにショックを受けていた。
家に転がり帰った男はベッドにくるまりなさけなく不安になる。どうしてあんなことをしてしまったんだ。ほんの数時間でいいから時間を戻してほしい。
しかし、しばらくそうしているうちに、別の感情が芽生えてきた、待てよ、自分がしたことは間違ってなんかいない。考えてみると、奴が自分にしたことといえば、それはもう怒りがおさまらないほどに煩わしいものだった。思いだしてみろ。あのとき殺さなかったとしても、いつか絶対に殺していただろう。そうに違いない。早めに殺しておくことに越したことはなかったのだ。
自分は間違ったことなど何もしていない。奴に腹が立っていたのは自分だけじゃないだろう。むしろ、社会的にもプラスになることをしたのではないだろうか。それならば、自分は何をこんなに不安になっているのだ。そうする必要はどこにもあるまい。
ベッドのわきの棚に置いてある時計を見ると既に零時をまわっていた。いつのまにこんなに時間がたっていたんだと思うと同時に、棚の横に何かがたたずんでいるのに気付き、飛びあがった。バクバクとしていた心臓が落ち着いてきたので、男はもう一度”それ”をよく観察した。
”それ”は中型犬くらいの大きさをしている。しかし、中型犬とは到底似つかない。目は兎の赤眼を黒くしたようにつぶら、顔は漫画の中のように丸く、猫よりも小さい耳が付いている。毛は生えているのか生えていないのか判別できなかったが、全身が白く、犬や猫よりはぽっちゃりとしていた。見たこともない姿をしている”それ”は、どこか不気味で、この世のものとは思えなかった。
すると、突然、奇声を上げて”それ”が襲いかかってきた。
男は悲鳴を上げて振り払おうとしたが、その手に噛みつかれてしまった。ガブリとやると、”それ”はひらりと元いたベッドのわきへと戻る。
鳥肌が立ったが、何故か痛みはなかい。見ると、何か煙のような白いものが、手首のあたりから漏れていた。かみついた張本人はというと、もちゃもちゃと何かを噛んでいる。それは白く、おそらくこの手首から出ている物体と同じものだ。食べ終わると、”それ”は座って動かなくなり、おとなしく同じ方向を見ていた。
噛みつかれた手首を見つめていると、煙草の煙のような白いものがふわふわと漂い、時間と共に空気に薄れて行くのがわかる。奇妙な感覚だった。いったいこいつは何者なんだ。自分を呪いに来たとでもいうのか。それとも、これは全部幻想で、頭のおかしくなった自分がすべて作りあげているだけなのか。しばらくの間警戒をしていたが、男はやがて眠りに落ちてしまった。
次の朝、目が覚めても、”それ”はまだ同じ格好をしていて、いよいよ幻想というにも苦しくなった。ちょこんと座っているが、いつ何をしでかすかわからない"それ"に、男はおびえた。考えることは他にもたくさんあるというのに―――。男が仕事から帰ってきてもまだ”それ”は同じ格好で同じ場所にいるのだった。気味が悪い。
コンビニで買った弁当とビールを買って夕食にする。普通に生活をしていても、"それ"は微動だにせず同じ方向を見つめている。まったく奇妙なものが住み着いてしまった。はじめ、男はどうにか”それ”を外に出そうとしたが、いくら思い切り引っ張ってもうんともすんともいわない。結局男は諦め、だらだらとテレビを見ていた。
これから自分はどうなってしまうのか。"それ"に気をとられていたが、本来の問題は別だ。自分が奴を殺したと知れてしまうのも時間の問題だろう。いくら自分は悪くないと思っていても、常に不安が押し寄せる。しかし、何度考えても、そもそもやつは殺されるべき人間だったのだ。その役目を果たしたのがたまたま自分だっただけで、悪いのは奴だ。奴が全ての元凶で、自分は何も悪くない。
いつもよりも多くアルコールを浴び、男はふらふらとしながらトイレに行く。そのままベッドにダイブし、うめき声を上げると、次の瞬間、男は飛び上がった。再び”それ”が奇声を上げて飛びついて来たのだ。
男はやはり悲鳴を上げ驚いた。”それ”は噛みついたが、今度は確かに、痛みや、触られた感覚すらもまったくない、ということに気付いた。腕の部分から白い煙が漏れていて、”それ”はもちゃもちゃと何かを食べていた。その姿に肉食獣のような荒々しさはなく、何を考えているのかよくわからない顔をしている。腕にはこれといって異変はなく、にょろにょろと舞う煙も、すぐに消えてしまった。男はしばらく"それ"を眺めていた。こいつの目的は何なのだろうか。こいつは自分の何を食べているのか。いつの間にかだるさと眠さがやってきて、男は眠ってしまっていた。
次の日も次の日も"それ"は同じことを繰り返し、あらゆるところに噛みついていった。最初のうちは驚き続けていたが、だんだんと慣れて来て、男は”それ”の好きにさせるようになったのだった。
日がたつにつれ、男は身体に異変を感じ始める。
力が入らないのだ。
それはなんというか、けだるさのようなものだが、本当に、自分の中から何かが抜き取られていくような感覚だった。”それ”が関係しているということは明らかだろう。しかし、そう気付いた時にはもう遅く、おそらく男の身体はほとんど喰いつくされてしまっていた。かといって、抵抗する気力も体力も奪われてしまっていたので、男はただただ精神を病んでいくばかりだった。
来る日も来る日も体中を噛みつかれ、とうとう、残すところは心臓のみとなる。すべて喰われてしまったらどうなるのかなんて考えたくもない。
”それ”がかみつく時間は刻一刻と迫っていた。
一体どうしてこんなにもおびえなくてはならないのだろう。自分が何か間違ったことをしたとでも言うのか。こんなにも自分を追い詰めたのは誰なんだ。そもそも間違ったことなんかしていない。自分は正しいことをしたのだ。奴のくだらない命を終わらせたのは、自分だぞ。悶々と時は過ぎる。
そして、男の中で何かが切れ―――男は発狂した。
あてもなく町を走り抜け、絶叫する。
俺は悪くない。
代わりにお前が死ねばいい。
男は次々に人を殺してゆく。そして、ひとり殺すごとに、白い煙が、男の腕、足、身体のあらゆる部分に入って行くのだ。どうやらそれは男が奪われていた何かだったようで、ますます力がみなぎり、ますます人を殺した。
その様子はまるで狂気だったが、男は喜びに満ちていた。まるで自分の正しさが証明されているかのように、精気が漲ってくる。男は狂い笑った。
目に入る人間は、死んでいるか逃げているかになった時、男はようやく手を止める。
男は茫然とした。
自分は、ついに殺してしまったのだ。もう取り返しがつかない。
いつの間にかすぐそばにたたずんでいる“それ”は、男のことをじっと見つめていた。
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