2013年7月22日月曜日

日本で1番金の集まる場所は、日本で1番鬼の現れる場所となった


六本木。日本で1番金が集まる場所は、いまや日本で1番「鬼」の集まる場所となってしまった。



「鬼」は恐ろしく大きく、薄茶色い身体をしていた。ぎらぎらと輝くビルなどお構いなしにその存在感を放ち、六本木の街をずしりずしりと歩いてゆく。



「鬼」は人を殺した。ただし、やみくもに殺してゆくのではなく、じわりじわりといたぶり殺すときもあれば、一瞬で首を飛ばしてしまうこともあった。周囲の人間は悲鳴も上げることすらできずに、ただ目をそらし、自分の気配などないかのように通り過ぎるのだ。それもそのはずである。鬼が現れ始めた最初のころこそ、皆いっせいに悲鳴をあげ、逃げまどい、時に立ち向かうものもいた。当然社会問題になり、国を持って対策がとられた時もあった。



しかし、それらはすべてが無駄だったのだ。



何を持ってしても鬼には勝てるはずもなく、人間には、鬼の正体が一体何なのかすらもわかっていない。人々はただ、いつ鬼に襲われ、殺されるかもしれない恐怖と隣り合わせながら、生きるしかないのだ。



「鬼」は、普段、六本木の街を歩き回ること以外に特に目立った行動はしていなかったが、それが逆に不気味で、常に隣に鬼がいるような、そんなぞっとするような感情に襲われる。



また、こちらが奇妙な行動をしなければ鬼が攻撃をしてくることもなかった。こちらがわかる限りでは、酔っ払い騒いでいるもの、急いで歩いているもの、つまり、なにかしら他と違った動きをしているものを攻撃するという特徴があった。そのため、人々は、出来るだけ鬼を刺激しないように、目も合わせず、皆一様に鬼を避けて通るのだ。



夜でもあれだけ騒がしかった六本木も、今では本当に静かになった。ほとんどの人は六本木を訪れることはなくなり、いまではただ無言で、ヒルズだけがたたずんでいる。






「鬼とは人々の心なのではないか」






ある人は思う。






鬼は、人々の生きづらさが具現化したものなのだ。きっとそうに違いない。そんなことはあり得ない?いや、そうとしか考えられなくはないか。はじめに、六本木。さらに、最近、東京各地に鬼の目撃情報が現れ始めた。日本で1番心を病んでいる人間が多いのが東京、そうだろう」



何もできなくなった時、人というのはあれこれと考え、判断し始める。こういうときほど人が自分の意志を突っ張る時はない。怖さは、強い言葉と意地を生むのだ。人々は、「鬼」とは何なのかとあれこれ議論し、どうしようもできない時間を延々と潰していった。

「鬼」とは何なのか?

「人々の心の闇」なのか?

「宇宙から来た謎のプレデター」なのか?

それとも、「ゾンビや幽霊のようなオカルトな現象」なのか?

あれこれと考えてもなに一つはっきりとした答えは出ずに、ただ鬼は増え続けていった。そして、人を殺してゆくのだ。



人々はどうすることもできず、ただ「鬼」から逃げ続け、殺され続けた。



人々に逃げ場はなくなり、どこへ行っても「鬼」の存在を恐れ、まるで、「鬼」の為に生きているような気分だった。「鬼」の目を気にし、「鬼」のことばかり考える。



もうどこにも逃げ場などない。



しかし、ある人は気付く。



「これは、これまでと同じなのではないか」



「そうだ、同じだ。何かに脅え、びくびくし、それの顔色ばかりを気にして、まるで他人の人生を生きるように生きている。殺されないように殺されないように生き、しまいには自分で自分の首を絞め殺されてゆく。これは、「鬼」が現れる前と変わらないじゃないか。自分が本当にしたいことを押し殺して、いったいどこへ行くつもりだったのだろう。「鬼」にびくびくしながら暮らしていて、何が楽しいのだろう。そうやって自分で自分を殺すくらいなら、殺される方がましだ。私はもう「鬼」など恐れない。誰の目を気にすることもなく、遊びたい時は遊び、騒ぎたい時は騒ぐ、自分のやりたいように生きるのだ



偉大なる秘密に気づいた者たちは、叫び、歓喜し、手をあげる。



そうして、あっさりと殺されてしまうのだった。




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